「おばあちゃんの鐘馗(しょうき)様」

林 計男


 母方の祖母・林ミヤの生涯を振り返ってみることは、私にとっては、極めて重要です。数少なくない先祖の中でも、私の人格形成に最も大きな影響を与えた人物のひとりだからです。
 彼女は、明治二六(西暦一八九三)年に生まれ、昭和五七(一九八二)年に亡くなりました。当時、双子のおばあちゃんとして、テレビの人気者だった、金さん、銀さんより一歳年長でした。
 生前大晦日の夜、家族皆で楽しんだテレビ番組に、NHK紅白歌合戦がありました。昭和三六(一九六三)年の「東京五輪音頭」(宮田隆作詩、古賀政男作曲)なども、彼女のお好みの曲のひとつでした。

 ハアー あの日ローマで眺めた月が
 今日は、都の空照らす
 四年たったらまた会いましょと
 固い約束夢じゃない
 ヨイショコーリャ夢じゃない

と歌った、あの曲のことです。

 二〇〇六年の「紅白」で、テノール歌手の秋川雅史が歌った「千の風になって」(新井満作詞・作曲)は、
 私のお墓の前で泣かないで下さい
と歌いだしますが、この歌詞によると、人は死んでも、「今も私のそばにいる」ということになり、我が家の仏壇には、今も祖父母の写真が笑いかけていますので、ということは、祖母は今も私のそばにいることになります。

 祖母が祖父と結ばれ入籍したのは、大正二(一九一三)年で、世帯を持ったのは、横浜市中区万代町でした。当時彼女は一九歳で、九歳年長の祖父とは見合い結婚でした。その日、彼女は、下ばかり見ていて、祖父の顔を見ることもできなかったと聞かされた記憶があります。一方、夫婦になっても、祖父は無口で、最初のうちは、二人の間にほとんど対話がなかったそうです。

 後年、というのは、その後、同じく横浜市中区蓬莱町に祖父母が移住し、空襲でこの家を焼かれ、同じく横浜市鶴見区内に一家が移住した後、日本中が貧しかった戦後のことですが、家が狭かったためもあって、孫の私は、祖父母に挟まれ、いわゆる川の字になって寝ていた頃のことですが、早朝私の頭の上を飛び交う、二人の仲睦まじい、大声の会話に目を覚まされ、それを黙って聞いていたのでした。
 二人の話題は、身近な近隣の人々の噂話から、親戚の、また私の知らない古い昔の、誰かが狐狸にだまされた話など、自由に時空を超え広がっていました。つまり、祖父が祖母との結婚当時無口だったというのは、夫婦が未ださほど打ち解けていなかっただけではないかなと思います。
 とにかく、それで、祖母は、結婚当初、祖父に人間的な感情があるのかを、疑っていたそうです。
 しかし、最初に長女の私の母が生まれ、次に、祖父待望の長男、跡取り息子に恵まれたものの、満一歳の誕生日を前に病死した時、祖父が涙を流すのを見て、「この人にも、人間的な感情があるんだ」とはじめて感じたそうです。
 不幸はその後も続き、次女も乳児のうちに病魔で失いました。その後、三人の叔母が生まれ、祖父母は四姉妹を育てました。
 母は、祖父の郷里から、父を婿養子に迎え、入籍したのは、昭和十三(一九三八)年五月でした。祖父の郷里は神奈川県鎌倉市で、鎌倉屋という屋号で、米穀商を営んでいました。当時のセピア色の写真を見ると、祖父の前掛けに、マルにカタカナのトの字が書かれています。これは、富吉のトの字をとったものでした。

  富吉の名が、「富」と「吉」という、あまりにも景気と縁起の良すぎる字を並べたため、関東大震災前に商売に成功し、郷里の村を山高帽を被って歩くのを、「成金様が通る」と人々が噂していたのを、当時、貧しい農家の三男だった父が、子ども心に憧れたと、父に聞いたことがあります。

 本店のほかに支店や分店を持ち、番頭さんや名前の一字に「どん」をつけて呼ばれる多数の使用人に囲まれて、跡取り娘として、乳母日傘(おんばひがさ)で育てられた母でした。

 しかし、祖母が関東大震災で倒壊した家の大きな梁(はり)の下敷きとなり、助け出され、生命はとりとめたものの、母が風邪をこじらせ、高熱のため耳の神経をやられて難聴になったことを、祖母は、自分の事故のせいで娘の治療が行き届かなかったのだと、大変に苦にしていました。

 そして、その気持ちが、母を甘やかすことにつながり、それで、母の傍若無人な性格を形成してしまいました。

 それでも、祖母たち夫婦は震災後、鶴見区の花月園前に餅菓子屋を開店し、そこから再出発しました。祖母が、「隠し味に塩を少し加えるのがコツだよ」と言いながら、つくってくれたぼた餅の、甘さを抑えた味のおいしさが懐かしい。

 その後、中区の萬代町、続いて、蓬莱町に移り、米問屋を再建したのでした。

 私の生家は巨大な二階建てで、屋上の広大な物干し台が、私と弟の遊び場でした。店の前には運河があって、川面のさざなみはキラキラと光って、水は澄んでおり、大小の魚影や川底のエビやカニなども、はっきり見えていました。

 米屋につきもののネズミ捕りのために、メス猫を飼っていました。猫は、代が替わっても、名前はいつもチーコで、子猫が生まれると、祖母は、ナンマイダブナンマイダブとおがみながら、米俵のふたのさんだらぼうしに生まれたての子猫たちを乗せて川に流していました。私は、未だ目の開かない子猫たちがかわいそうで、何度も夢でその場面を思い浮かべて、涙で枕をぬらしたものでした。材木をたくさん綱で結んだいかだや、ポンポンと音をたてる貨物船のポンポン蒸気が、ゆっくりと川面を滑っていました。

 戦争が激化してくると、川には上陸用舟艇が係留され、人々の疎開がはじまると、町内の人々が空き家になった家に綱をつけて引っ張り、家を倒していました。空襲による延焼を避けるため、家と家の間に空間をあけるのだということでした。

 私が数え年で三歳のとき、父が応召し、中国の東北地方、満州の戦地へ送られました。

父の出征のとき、母に手を引かれた私が、「お父さん、元気で行ってらっしゃい」と大きな声で呼びかけるを聞いて、大勢の人々がもらい泣きをしたそうです。父は、「こんな小さな子を連れてくるもんじゃない。罪だよ」ととがめる人もいたと、ずっと後になって、語っていました。当時、既に戦局は相当に悪くなっており、戦場に兵士として送られた者が、必ず生還できるとは、思われなかったようです。

 古いアルバムを開くと、父の出征前に家族全員で写したと思われる、集合写真が残っています。

 真ん中に父が私を抱いてすわり、隣りに母に抱かれた弟がいて、兄弟は二人ともよだれかけを着けています。その、直ぐ後ろの祖母は、未だ四十代前半で若々しい。
 祖父も、未だ五十代に手が届いたばかりだったでしょう。祖母が、私の方を向いて、私にカメラのレンズを見るようにと、人指し指で示していて、私は、カメラではなく、祖母の方を見ています。 カメラの方をまっすぐ見て、口を真一文字に結んでいるのは祖父だけで、弟を抱いた母も、三人の叔母も皆、私と祖母の方を見て、歯を見せて笑っています。

 別の集合写真を見ると、背景となっている、生家のガラス戸は、すべて空襲によりガラスが飛散しないよう、白い障子紙がたすきがけに張ってありました。

 空襲警報が鳴ると、家の前に掘られた防空壕に避難しました。夜空に大きく迫る爆撃機B29は、手にとるように近く、低空飛行でした。高射砲から砲弾が打ち上げられても、まったく当たったのを見たことがありません。
 あちこちで燃え上がる家々や、夜空を明るく照らし出す、落とされた探照灯のせいでしょうか、まるで昼間のように明るく、一種美しい光景でした。しかし、周囲を爆音や人々の泣き叫ぶ声が包み、さながら、生き地獄のようでした。私は、サイレンの音を聞くと、今でも嫌な感じがするのは、当時の恐怖の記憶のせいでしょう。

 ある日、空襲警報に逃げ遅れて、祖母と私が、二人だけで家の押入れにもぐりこみました。その時、「この子に、おばあちゃん、こわいよ、としがみつかれたときは、生きた心地がしなかったよ」と祖母は、後に繰り返し語っていました。

 その恐ろしい経験から決意したのでしょうか。空襲が激化するとともに、私は母と弟とともに、父の実家のある、鎌倉市の農家に縁故疎開しました。農家の前面には、広大な田園が広がり、その向こうに東海道線が走っていました。真っ暗な空間を長い列車の窓の光が長く尾を引いて走る夜汽車は、本当に幻想的でした。

 空襲がさらに激化すると、田んぼに焼夷弾や爆弾が落ちることもありましたが、それはまれでした。

 おそらくその頃、「これだけは、孫たちに残してやりたい」と、祖母が、大船駅から私たちの疎開先まで、徒歩で一時間余りもかかる農道を、背負って運んでくれた、中国の厄除けの神、五月人形の鐘馗(しょうき)様と、アルバムだけが、今も残っています。

 私の生家は、昭和二十(一九四五)年五月二十九日の横浜大空襲で全焼してしまいました。

 残虐極まりない無差別焦土作戦でした。この非道な作戦を指揮した米軍の将軍、カーチス・ルメイに戦後、日本政府が「自衛隊の指導に功績があった」として、旭日大綬章を与え、朝日の「天声人語」がこれを抗議し、国会で野党が怒ったことがありました。当時の防衛庁長官は、後の小泉純一郎首相の実父小泉純也でした。

 カーチス・ルメイは、自伝の中で、冷酷に述べています(前田哲男『戦略爆撃の思想』朝日新聞社)。

 「私は日本の民間人を殺していたのではない。日本軍需工場を破壊していたのだった。日本の都市の家屋はすべてこれ軍需工場だった。スズキ家がボルトを作れば、お隣のコンドウはナットを作り、おむかいのタナカはワッシャーを作っているという具合なのだ。これをやってなにが悪いことがあろう」。

 横浜の市街地が壊滅した日、大きな黒い煙が渦巻く横浜の空を、鎌倉の農家の庭で、私と弟は母とともに、見つめていました。あの空の下で、祖父母や叔母たちが、どうやって生き延びることができたのでしょうか。一歩間違えば、全滅しても、不思議ではなかったのです。

 後に、生家の焼け跡に、祖母に連れられて行ったとき、あたり一面の瓦礫の中で、折れ曲がった水道の蛇口から水がシューシューと音をたてて、噴出していました。たくさんの木造家屋が焼けてしまい、僅かに鉄筋ビルの残骸が、あちこちに残っていました。

 祖母は、戦後、こう語っていました。「日本は、戦争に負けてよかったんだよ。間違って勝ってしまったら、また、日本の男たちは、戦争をはじめたと思うよ。戦時中は、女は男の道具だった。子どもを産んで、家事をする、男の道具だった。女は、人間として、一人前には扱われてはいなかったよ。せっかく大事に育てた息子が、戦争で殺される。ひどいよね。女は、兵隊を育てたいと思って、子を生む訳ではないのにさ。戦争に負けたからこそ、男女同権にもなったんだ。あの戦争で、日本だけでなく、世界の国々は、本当にたくさんの犠牲を払ったけれど、日本は負けたから、女も人並みに扱われるようになり、平和になったんだ。家庭でも、国の政治でも、女の意見を聞かないと、ろくなことにはならないよ」。

 父が、抑留されていたシベリヤから生還したのは、私が小学二年生の昭和二十二(一九四七)年でした。

寝入りばなをたたき起こされて、「この人が誰だかわかるかい」と母に突然言われても、私に、わかる筈がありません。父と私が別れたのは、私が数えで三歳、満で二歳でしたからね。はじめて会ったという印象の、そのときの父の、痩せた坊主頭だけが印象に残っています。

 後に、父は、「戦争なんか、二度とするもんじゃない。家族がばらばらに切り離され、何の恨みもない、他国の人を殺さなければならない。愚かなことだよ」と、幾度も繰り返し、語っていました。

 父は私と弟を鎌倉の本家や分家に連れて行くと必ず、馬の背に乗せて農道を走ってくれました。私は父の腰にしがみついて、振り落とされないようにするのが、やっとでした。「これが、父親というものか」と子ども心に思いましたよ。父以外の家族の誰も出来ないことだったからです。

 横浜駅や桜木町駅の構内や、野毛の闇市には、傷痍軍人や浮浪児があふれていました。彼らを見て、父が言いました。

 「俺が生きて帰れたのも、お前が戦災孤児にならないですんだのも、ただ、運がよかっただけだよ。俺たちが生き残れたのは、奇跡に近かったんだから」。

 父は米の配給所をはじめ、祖父は勤め人になりました。

 夏休みの夜の小学校の校庭で、「聞けわだつみの声」を、蚊に食われながら見た後、父が大きな声で、「こんなに無残な犠牲を出しながら、バカな戦争をしたもんだ」と独りごとを言うのを聞きました。

 当時の横浜最大の繁華街の伊勢佐木町に行くと、進駐軍の米兵があふれていました。米兵による強盗や婦女暴行など凶悪な事件が頻発し、「いつか、必要なときは、これを使う」と、父が、どこで手に入れたのか、刃こぼれのしたジャックナイフを私に見せたことがありました。私には、子ども心ながら、小柄な父が、体格で圧倒的に差のある米兵に、こんなもので立ち向かえるとは、とても思えませんでした。

 小学校にも中学校にも、店の仕事が忙しい父や、耳の不自由な母に変わって、祖母が父兄参観に来てくれることが多かったのでした。

 「私は、大事な息子を、自分の母にとられた」と、その後繰り返し母は言っていましたが、しかし、それでは、祖母の立つ瀬がありません。身体に障害をもった母を気の毒とは思いながら、母がそういう自分をありのままに受け入れ、周囲の思いやりに感謝の気持ちを表す姿勢があったら、彼女の後半生は、もっと違った輝きをもったのではないかと、私は思うのです。

 古い映画の映像のように、私がいつも思い出すのは、私が、祖母に手を引かれ、鎌倉駅前から鶴岡八幡宮へ向かう参道の段葛を、桜吹雪が降り注ぐ中を歩いた記憶です。大船のほか、鎌倉市内や藤沢の片瀬などに親戚が数軒ありましたから、そのうちのどこかへ行く途中だったのかも知れません。桜の季節になると、この時のことを、今でも思いだすのです。

 私が進学した私立中学は、米軍基地に隣接していました。戦前は、軍の高射砲陣地があった跡地でした。

 あるとき、同中学の英語教師が、校庭に入り込んできた黒人の米兵を教室の窓から呼びとめ、生徒の前で、英語のスペルを確認して見せたことがありました。米兵と腕を組んだ日本の女の原色の衣服と、下品に音をたてるようにガムを噛みながら、ニヤニヤして教師と私たちを見下すように笑って見ていました。英語教師は大変得意げでしたが、生徒の私たちは、教師のその折の卑屈な態度と、女の下品で尊大な態度の対比に、以後、その英語教師を軽蔑するようになりました。そして、英語まで嫌いになってしまったのでした。

 時代が流れて、私が高校、大学を出て就職した後、祖父が行年八十歳で亡くなりました。健康で高齢になっても病気らしい病気をしなかった祖父でした。

 昭和四十(一九六五)年夏、祖父母が二人で北海道旅行に出た同じとき、私も、一人で北海道の十泊十一日のひとり旅に出ました。函館から札幌へ向かう同じ特急列車の中で、お互いに偶然乗り合わせているのに気がつきました。

 あの時は大変元気そうだった祖父が、旅行から帰宅後、ツアーの疲れで、急に寝込みました。高齢者にはきつい日程の長距離旅行が祖父の健康だった身体に意外なダメージを加えたのでした。

 祖父は、すぐ上の姉をガンで前年亡くなったのを、苦にしていました。旅行の後、自分が食欲をなくしたのを、そして、医師が病名をはっきり言わないのを、ガンのためと思い込み、ますます食欲を無くしました。

 寝たきりになった祖父のひげをそり、手足の爪を切るのは、孫の私の仕事でした。祖父は、十月の終わりに亡くなりました。

 父に言われて、祖父の死亡診断書をもらいに行ったとき、主治医が私に言いました。

 「君は、家族のほかの人たちと違って、インテリなんだから、君ならおじいさんの死を理性的に受けとめることができる筈だ。だから言うのだが、看病疲れが極度にたまって、悲しみに打ちひしがれているおばあちゃんの健康状態が、私はとても心配だ。おじいさんは、天寿をまっとうしたんだよ。つれあいの死を悲しむあまりに、後を追って、急死する高齢者は少なくない。君は、他の家族と一緒に悲しみに沈んでいるだけではいけないよ。悲しみを乗り越え、悲劇の連続を避けるために、知恵をしぼらなければいけない。これは、君だけにしか出来ない問題だよ」。

 葬儀が終わり、横浜中華街の萬珍楼で初七日の法要をかねた宴が催されました。人々が、こもごも祖父の生前を偲ぶスピーチをしました。

 宴も終盤にさしかかったとき、私は、百名近い参列者に向かい、こう話し出しました。

 「私は父の出征中、ずっと祖父の庇護下にいました。戦時中の空襲も、戦後の食糧難も、大した苦労もなく、切り抜けることができました。同年代の人々の中では、自分は、例外的に稀有な僥倖に恵まれて成長したと思っています。戦争で命を落とした人、親兄弟をなくした人も決して少なくなかったからです。祖父の死は、私にとってはじめての肉親の死で、本当に耐え難いほど悲しいです。でも、私は、主治医に、『君の祖父は天寿をまっとうし、天国へ行ったのだ』と言われました。私も、そう思いたいと切実に思っています。だから、私は、ここで、生前祖父が私たちに注いでくれた愛情の深さに感謝し、祖父の冥福を祈るため、祝い歌を歌いたい。初七日の宴席ですから、場違いなのは百も承知の上ですが、祖父の生前をたたえたいと思うのです。どうぞ手拍子をお願いします」。

 当時、私は職場の日本民謡のサークルに属していました。このとき私が歌ったのは、「めでためでた」ではじまる「花の山形」の「花笠音頭」でした。

 最初は、とまどった表情を見せていた人々の中から、極めて遠慮がちながら、手拍子を打つ人も少しづつ出始め、最後には、控えめながら、「ヤッショウマカショノ、シャンシャンシャン」と、掛け声をかける人さえもいました。

 喪服の人々が「めでためでた」の歌に、手拍子で応える。これは、事情を知らない人が見たら、異様な光景に映ったでしょう。

 しかし、宴の後、祖母の本家の跡取りで、中学校長をしていた、母の従兄に、私は、肩をたたかれました。

 「君の歌を聞いて、おミヤさんの背筋が、スッと真っ直ぐに伸びるのがわかったよ」。

 行事がすべて終わり、人々が去り、帰宅して、寝床の中でひとりきりになると、突然私に悲しみがこみ上げてきて、声を上げて泣き出しました。

 嗚咽はなかなか止まらず、枕もふとんも涙でびっしょりと濡らしました。

 翌朝、目が覚めて、ふと見上げると、枕元に、祖母が座っていました。祖母は黙って身をかがめ、あおむけに寝たままの私の額に口づけしました。長い時間、そうしていました。私は、それを祖母の感情を受けとめる儀式かのように、じっとされるままになっていました。

 その後、年月が過ぎ、祖母が、亡くなる数日前、「天国で、おじいちゃんが待っているよね」と、祖母の手を握って、私は言いました。祖母は、「そんなに強く握ったら痛いよ」と笑いながら、答えました。

 「いやだねえ。こんなに遅くなっちまって。もっと早く死にたかったのに。おじいちゃんは、私を待ちきれなくなって、私のことなんか、忘れてしまったんじゃあないのかねえ」。

 私は、父の実家に縁故疎開した私たちの無事な成長を祈って、おそらく一時間余りの道のりを、背中に五月人形の鐘馗(しょうき)様を背負って、運んでくれた祖母の気持ちの切実さを思います。当時、機銃掃射で亡くなる人は、稀ではなかったからです。祖母は、命がけだったのです。鐘馗様は、中国で、疫病神を追い払い、魔を除くという神と言われます。目が大きく、あごひげが濃く、緑色の衣装に黒い冠、長い靴をはき、剣を抜いて疫病神をつかむ姿にかたどられます。玄宗皇帝の夢に現れ、皇帝の病気を治したという進士鐘馗の伝説に基づくものです。鐘馗様は、祖母が、孫たちの無事な成長を祈る愛情のシンボルでした。

 戦後七十年以上経った今、戦争放棄を規定した九条を含む憲法を全面的に改変して、日本を、アメリカと肩を並べて「戦争する国」に変えようとする動きが、かつてない規模と強さになっています。私は、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、憲法九条を持つ国だからこそできる、武力によらない紛争解決のため、相手国の立場を尊重した、平和的な友好・協力関係の発展を目指すことをメインテーマに、本名で、ホームページを開設しました。九条を含む憲法のいかなる改変をも許さず、二一世紀に日本国憲法を全面的に開花させることを主張する林計男のホームページを、私が、「おばあちゃんの鐘馗様」と名づけたのは、祖母の私たち孫への愛情を、今度は自分の孫たちに引き継ぎたいと切実に願うからです。

 私には、二人の大学生を含む孫がおります。子や孫の無事と平和を祈る、現在の私の気持ちは、横浜大空襲が迫る、緊迫した状況のもと、鐘馗様を背負って、鎌倉の農道を必死に歩いた、祖母のそれと同じです。

 私は、インターネットを通じて、国内国外の会ったこともない、多数の人々に、日本国憲法の、平和条項と、それを裏づける民主的条項を広めたいと、切実に願っています (2018/07/30)。


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